Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

P2

代々木



◆旧暦通称〈忘れ去られた街角のディスプレ-〉上に静かに生息する余白のノ-ト。
それにしても、一月余り前から突然連絡が取れなくなってしまった彼は、一体どこへ行
ってしまったのか? もしかすると〈再収容〉されてしまったのではないだろうか? (も
しそうだとすると、今度はもうそこから戻れはしないだろう。) まさかとは思うが(そう
は思いたくないが)、あり得ないことではない。いや、考えてみると、十分にあり得ること
なのだ。というのも、彼が今居所(つまり「シャングリア通り秘密の裏側入るその後出る」)
を変える理由が他に何かあるだろうか? 居所自体の空間特性を考えてみるなら明らかだ
ろう。全くと言っていいほど不可解だ。とにかく突然過ぎる。仮に彼が仕事を止めた為に、
少なくとも一時的に金が払えなくなったにしても、再収容に関わる理由以外にはほとんど
考えられない。だが、そのことに関わるどんな徴候も私には明かされてはいなかった。た
だし、極小微粒子ネット上の偽装された迂回路を半ば巧妙に迂回してたびたび繰り返され
た沈黙電話以外には……。
 それは、久しぶりに彼と電話で話し始めてからしばらく経った後の出来事だった。突然
の彼の電話。彼の声は、あの頃と少しも変わらなかった。透き通った爽やかさが、雨に濡
れた舗道の寂しさをたたえたあの美しい沈黙の声。〈私〉と彼は、かつて出逢った街で再会
することを約束した。
 そして数日の時が流れた。記憶が静かに流れ始め、〈私〉はいつになく彼を身近に感じ始
めていた。(出逢ってほどないある夜、飲みながら彼が〈私〉に向かって言ったのを思い出
す。「なんて付き合いがいいんだお前は。[あえて太古の表現を使うなら]ほとんど〈献身
的〉と言ってもいいよ。[全く、こんな言葉が飛び出してくるとは……]」) だが次に〈私〉
が連絡を取ったとき、彼はすでにそこにはいなかった。(連絡先の指示もない。もはや何一
つない、完全な空虚がそこに広がっているのがはっきりと見える。そのすべての襞が押し
広げられ、跡形もなくなった、いわば死んだ砂漠がやがてそこに生まれる。それはあの白
い部屋だ。) それから一月余りの時が流れた。彼が連絡してこない限り、〈私〉の方から
彼の居所を知るすべはない。間接的な方法も、今ではすべてなくなっていた。久しぶりに
話をしたあの時、彼は最後の救いを求めていたのかも知れない。もちろん〈私〉にではな
い。彼は誰にも救いを求めはしなかった。少なくともあの時以後は。彼はただ救いを求め
ていた。終わりなく続く夜の底から脱出するために? その沈黙の中で、とめどもなくあ
ふれ出る言葉が渦巻き、閉ざされた空間を埋め尽くす。ただ語り続けることだけが、救い
への最後の賭けだったのだ。たとえその賭けが果てのないクノッソスの回廊で為されるの
だとしても。
もうずっと昔に、〈私〉が彼の部屋の深い闇の中へと沈んで行ったとき、斜めに差し出さ
れた彼の顔には、消すことも、押しとどめることもできない苦痛が刻み込まれていた。果
てのない、無際限の苦痛。コントロ-ル不可能なもの。それは絶えず増殖を続け、あの夜
の底へと沈澱していく過剰な記憶と絡み合っていた。信じ難いほどの明晰さに満ちていな
がら、決して解きほぐせない糸。彼にとっては、(通常の意味での薬はもちろん)もはやど
んな薬も効かなかったのだ。語り続けることが、記憶の連鎖を断ち切るのではなく、むし
ろそれを、きわめて明晰なものとして強化してしまっていたからだ。その頃の〈私〉にと
って、すでに彼は〈他者〉だった。ただ〈他者〉だけが、〈私〉を触発する。すなわち〈他
者〉だけが、〈私〉の情念をかき立てるのだ。その都度一度限りの出来事。〈私〉は彼と出
逢い、そして別れた。彼の声を知る者にとってはいつもと同じ平静さの背後で、彼の一切
を貫いていた情念が、一つの終わりを経験したのだ。
だが、一体〈どこ〉で……。
【連続体を造型すること――〈線を引くこと〉から〈数えること〉へ】
1.『〈私〉は今この胸に痛みを感じている』と2.『〈私〉は線を引き、数える』がお
互いに取り結ぶ関係を見よう。もしこの関係が破綻すれば、1も2も消える。つまり、1
と2のどちらか一方だけが成り立つことはあり得ない。例えば羊水中の胎児には、このど
ちらもない。〈私〉や言葉がないのは言うまでもないだろう。(その〈潜在能力〉を仮定す
ることは自由だが。) ましてや『〈私〉は〈私〉、〈痛み〉は〈痛み〉、A=A』はない。(こ
の胎児は〈自分の叫び声〉[=A]を聞かない。だが〈私〉は、この胎児が叫ぶのを聞き、
感じる。あたかも〈私〉に〈痛み〉を訴えているかのように。) では誰かにとって、1だ
けが成り立つとしよう。彼は今確かに自分の胸に痛みを感じている。だが彼は線も数も知
らないし、そもそも生まれてからこの方線を引いたことも数えたこともない。(たとえ他人
にとって、指を動かしている様に見えるとしても。) 〈この物〉や〈物の形〉には縁がな
いので、〈我々〉が知っているような夢を見ることもない。『〈私〉は〈私〉、〈今〉は〈今〉、
〈この胸〉は〈この胸〉、〈痛み〉は〈痛み〉、〈感じる〉は〈感じる〉』は分かっても、「痛
いところはどの辺ですか?」と問われて痛いところ(この胸)とそうではないところを区
別して示すことは決してできない。つまり、境界や領域(こことあそこ、この時とあの時)
を知らない。それ故「いつ頃から痛むのですか?」と問われても、その〈いつ〉を理解で
きない。ある時とその次の時を区別することもつなげることもできないのだから。〈分ける
こと〉と〈つなげること〉のどちらか一つだけが成り立つことはあり得ない。〈線を引くこ
と〉と〈数えること〉は、〈分けること〉でもあり〈つなげること〉でもあるような《一つ
にまとめること》(総合的な統一)なのだ。
 ところで、彼には〈視線〉あるいは眼差しすらないだろうから一体〈何〉を見ていると
言えるだろうか? むろん〈何〉も見ていない。彼にはこの〈何〉(=A)がどうしても分
からない(のだろう)。たとえそれが〈何〉であろうとも。そういえば、彼は〈方位〉も〈道
筋〉も分からないから、一人ではこの病院に来ることさえできなかったはずである。(つま
り、彼は〈(再)収容〉されたことになる。) それどころか、彼は自分と他人、〈内〉と〈外〉
の区別も含めておよそ一切の〈区別〉を知らないはずなのだ。彼は語ることも書くことも
〈心の中でつぶやく〉こともできない。彼にとって、〈心の中〉とは一体〈何〉だろうか? 
それは何ものでもないだろう。彼には〈言葉〉がない。言葉がそこで成り立つ空間と時間
(あるいは内と外)の区別と対応という限定された場がないからだ。彼はどんな限定され
た場とも無縁である。よって以上より、〈私は〉も〈今〉も〈この胸に〉も〈痛みを〉も〈感
じる〉も彼(とは誰なのか?)にはない。というわけで、逆に2だけが成り立つこともあ
り得ない。なぜなら、その場合彼には〈私は〉も〈今〉も〈この胸に〉も〈痛みを〉も〈感
じる〉もないのだから。

 (あの白い壁の背後で、彼の叫び声がどこまでも続く。〈私〉はそれを聞き、感じる。だ
が、このことは決して彼には届かない。そしてもはや声にはならない〈私〉の叫びも。こ
の二つの叫びがどこまでもすれ違うという出来事は、コントロ-ル不可能な《運命=意志》
の空間を形造っていた。迷宮は近いということ、それはこの空間の一つの扉を開くことな
のだ。すぐそこに、そしてどこにでも開かれる無数の扉を……。)


 
 さて、1と2が不可分だということを、《超越論的図式》の働きに即して見てみよう。先
に見たように、直観の形式によって《瞬間における触発》という《出来事=場面》は〈包
み込まれ得るもの〉となり、思考の形式(カテゴリ-)によって〈包み込まれ得るもの〉
は〈包み込まれたもの〉となる。つまり《超越論的図式》は、・.《瞬間における触発……!》
⇒《時空……!》というプロセスと・.《時空……!》⇒《今ここが痛む!》というプロセ
スを、一つのプロセスとして包み込むのである。そして、このことが〈我々〉の造型なの
である。・のプロセスによって成立する〈包み込まれ得るもの〉とは、〈時空連続体〉とし
ての〈我々〉の身体であり、その身体においてのみ、あらゆる〈触発の強さ〉(例えば痛さ)
が連続的に生み出され得る。(すなわち、〈我々〉の身体は、同時に《触発の強さの連続体》
になる。) また、・のプロセスによって成立する〈包み込まれたもの〉とは、この場合あ
る一つの連続量(ある痛みの強さ)である。『〈私〉が、〈私〉として認めるものにおいて、
今〈Xというもの〉、あるいは一般にXと呼ばれるもの(例えば〈痛み〉)を感じる』とい
う《我々の経験の形式》は、これら・と・を総合する一つの包み込みのプロセスから抽出
されたものなのである。
ところでこの包み込みのプロセスは、〈線を引くこと〉において空間と時間を不可避的に
結び付けることである。このことによって、『〈我々〉が現に今ここにあること』が定めら
れる。言い換えれば、《現に今ここにいる我々》が生み出される。このプロセスにおいて、
すでに〈私〉は〈我々〉として生み出されている。すなわち、空間と時間を不可避的に結
び付けることとしての〈線を引くこと〉は、〈私だけの〉ではなく、《我々の経験の形式》
を構成している。従って、先の1と2が不可分であるということは、『〈我々〉は、〈線を
引くこと〉によって《現に今ここにある我々》となることにおいて、初めてある〈痛み〉
を感じるのだ』ということなのである。よって〈痛み〉は、そして何であれ〈まさにこの
感じ〉と呼ばれるものは、この〈我々〉の産出/生成とともに誕生する。従って、何であ
れ《我々によってXと呼ばれるもの》は、この《我々(であること)》の終わりとともに終
わるだろう。一枚の紙切れとともに始まったあの最初の叫びは、もはや時も場所も失った
薄明の残酷さの中で、このことの終わりの始まりを告げていたのだ。

 線文字Bが刻まれた石版が、ゆっくりとクノッソスの浜辺を移動していく。その砕かれ
た顔/表面で、あの〈外〉からの声が透明な蜘蛛の巣を織り成しながら問いかける。
 『この《我々(であること)》の終わりの始まり、それは決して、あの大いなる歴史には
所属しない。それは歴史の終わりでも、その始まりでもないのだ。では、それは〈出来事〉
だろうか? この《我々(であること)》の終わりの始まりの彼方で、始まりも終わりも知
らない戦い、もはや時も場所も失った薄明の残酷さに満ちた戦いが誕生するのか? お前
には答えることができないだろう。その戦いにおいて賭けられたもの、あるいは沈黙と光
と闇の狭間で、あの叫びが永遠に響きわたるのかどうかを。だが、それはあの《運命=意
志》の空間の一つの扉の向こう側から、お前のもとへと静かにやって来るのだ。』

 【〈線〉から〈まさにこの線〉へ――印象の鮮やかさを巡るある美しき探究の思い出への
ちょっとした遠足】
ここで、一つの美しき探究を〈私〉のもとに残してくれたあのなつかしの哲学者D・ヒ
ュ-ムに登場してもらうことにしよう。彼によれば、すべて観念は印象の微弱な「模倣あ
るいは再現」に過ぎない。観念と印象はその「強さと活気」が違うだけなのである。また、
どんな印象も〈決まった量と質の程度〉を持つ。例えば、ある印象は〈これだけの長さと
曲がり具合〉の線として受け止められる。そして、印象同士はその〈決まった量と質の程
度〉に関してお互いに似ていたり似ていなかったりするのであり、その限りで〈線〉、〈直
線〉、〈曲線〉、〈円〉といった様々な一般的観念が生まれる。
ところでこれらの印象は、量と質(ここでは長さと曲がり具合)に関してどれだけ似て
いたり似ていなかったりするのかというその程度において〈連なり〉と〈切れ目〉を持つ。
例えば、「この二つだけ明らかに曲がっているが、残りはどれもほぼまっすぐ。こっちはみ
んなだいたい同じ長さ」といった〈具合〉である。さて、これらの量と質は、印象に先立
っては与えられていない。従って、この〈連なり〉と〈切れめ〉は、これらの印象がある
「見え(方)」においてどれだけ強く活気があるかということによってのみ生まれるはずだ。
つまり、このことに先立つ何らかの《アプリオリな条件》はないはずなのだ。もし、ある
「見え(方)」においていくつもの印象がとても生き生きしているのならば、これらの印象
はその「見え(方)」に関してまとめられる。その結果、例えば果樹園で「みんなとても赤
い!」と受け止められることになる。この場合は、「赤い」と後に呼ばれる「見え(方)」
を焦点とした印象の「収集」である。だが、もし奇跡が起こって、突然その一角に「白い!」
と後に呼ばれる「見え(方)」に関する印象の〈連なり〉が生まれるならば、同時に「赤い!」
との間にはっきりとした〈切れ目〉ができる。「白い!」という「見え(方)」が新たに強
く際立ったわけである。つまりポイントとなるのは、様々な「見え(方)」に関して印象の
強さと活気の程度に連なりと切れ目があるからこそ、結果として何らかの量と質、さらに
は一般的観念が生まれる、ということである。あくまでも、印象の《鮮やかさ》が観念や
印象に先立つのである。
 もちろん、「ここにヒュ-ムの循環を見るのはたやすい」と、あえて言いたくなる人も中
にはいるに違いない。「結局は印象の〈連なり〉と〈切れ目〉をもたらすものを個々の印象
に先立って持ち込むことになるのでは? ……それが言語、概念、その他恐らく〈私〉に
は聞き飽きた《言葉》によって何と呼ばれるにせよ。」 だが、ヒュ-ムはあくまでも個々
の印象から出発する。〈まさにこの線〉こそが線の一般的観念(=あらゆる線の〈連なり〉)
に先立つ。〈まさにこの線〉とは、まさにそうしたものとして受け止められ包み込まれる〈出
来事〉、すなわち《印象》なのである。だが、なぜそもそもある印象は〈まさにこの線〉と
して受け止められ包み込まれるのか? 彼自身が言うように、その都度与えられるどの印
象によっても〈線というもの〉は決して与えられはしない。従って、〈線として〉もかつて
与えられることはなかったはずである。とすれば、〈まさにこの〉とは一体何だろうか? 
つまり、なぜこれこれの印象は〈まさにこのX〉としてとても生き生きしているわけなの
か?なぜ〈X〉としてであって、例えば〈Φ〉としてではないのか? ……〈Xというも
の〉、それは一体どこからやって来るのか? (付記:もちろん彼は、「心」の潜在的な「力」
としての「習慣」あるいは「想像力」を「経験及び類推によって」提示することを忘れて
はいない。だが、恐らく彼自身も認めるであろう様に、あるいはその忘却が望ましかった
かも知れないのである。)
むろん〈Xというもの〉は、〈我々〉の生活にとって必要不可欠なものである。それは、
《瞬間における触発》という《出来事=場面》が〈まさにこのX〉として受け止められ包
み込まれるためのいわば背景であり、〈我々〉の生存においてお互いに共有されている。
しかし、それは消失し得る。
そしてこの背景が消えてしまえば、それと同時に〈まさにこのX〉も消える。この本来共
有されるべき背景の消失は、〈我々〉がそれによってお互いに語り合う〈共通言語〉の消失
あるいは機能停止をもたらすだろう。従って言うまでもないが、お互いに共有される〈X
というもの〉なしに、「〈まさにこれ〉なのだ!」とあくまで言い張る者と、「違う! そ
うではなく、〈まさにこれ〉なのだ!」とあくまで言い張る者との間には深い断絶がある。
(もっとも、そこにこそほとんど不可能に思われるだけに喜びに満ちた出逢いが生まれる
はずなのだが。) また、「〈まさにこの★〉こそが〈★というもの〉なのだ!」とあくま
で言い張る〈共同体〉のメンバ-と、「違う! そうではなく〈まさにこの☆〉こそが〈☆
というもの〉なのだ!」とあくまで言い張る〈共同体〉のメンバ-の間には、しばしば生
死を賭けた果てのない闘争がある。

 (その確かな位置を誰一人知ることのない軍事境界線が、彼方の砂漠へと延びていく。
その傍らにわずかに広がるこの美しい果樹園は、絶えず激しい爆撃にさらされている。
〈我々〉にはそれを終わらせることができないのか? だが子供たちは知らない。それが
一体いつから始まったのかを。いくら記憶をたどってみても、変わることのない閃光と炎
が視界を覆い尽くしているからだ。記憶の鎖を断ち切りながら、それでも彼らは血を流し
続ける。決して許し得ないものへの抵抗を叫びながら。疾走していく身体=情念。いつも
と変わらない午後の日差しのもとで、そしてその日差しがやがて傾きながら肥沃な大地を
貫いていく中で、この美しい果樹園を吹き抜ける風とともに流れ続ける彼らの血が、それ
を取り巻く無数の叫び声とふるえながら溶け合っていく。いつもと変わらない子供たちの
微笑。叫び。流れ続ける血液。この大地の豊饒さを不毛にすることしかできない聖なる言
葉の数々が、あの爆撃とともに繰り返し降り注いでくる。大地を切り裂き焼き払うこの閃
光と言葉の絆、もしそれが断ち切られるならば……。)

 それでも〈我々〉の生活にとっては、本来不可分であり互いに参照し合う〈Xというも
の〉と〈まさにこのX〉はどうしてもともに必要とされる。求められているのは、これら
両者のつながりを付けるものなのだ。言い換えれば、〈線を引くこと〉において空間と時間
を不可避的に結びつけるという《我々の経験の形式》が問われることになるのだ。

 【〈持続的なもの〉という装置――カンヴァスの上を駆け巡る絵筆と画家のモデルの深い
困惑についてのノ-ト】
印象の活気と程度が連なる場、言い換えれば《瞬間における触発》という《出来事=場
面》が分散してしまうことなく、そこにおいて〈線を引くこと〉という連続的プロセスへ
と常に包み込まれ得る場は、《時空連続体》という可能的な場である。すなわち、例えば何
らかの〈色〉、〈音〉、〈熱さ〉、〈痛み〉等(Xというもの)がそこで成り立ち得る場である。
つまり、この《時空連続体》は、その都度の《瞬間における触発》が、そこにおいてその
強さに関してまとめられ互いに結び付けられることによって、〈Xというもの〉の一つの要
素(内包量)として位置づけられ得る場なのである。ところで、この〈Xというもの〉、例
えば〈痛みというもの〉は、ある特定の《触発可能性の総体》を表現する《触発の強さの
連続体》である。例えば〈痛みというもの〉は、およそ可能な一切の〈痛さ〉、つまり今こ
こでの〈まさにこの痛み〉を含まなければならず、しかも〈痛み〉以外の様相を持っては
ならない。《触発の強さの連続体》である〈痛みというもの〉にとって、この〈痛み〉以外
の様相は、いわば《隙間/裂け目》である。従って、《超越論的図式》は、〈Xというもの〉
を支えている《時空連続体》を、〈まさにこのX〉への変換の場としてその都度造型しなけ
ればならない。
さて、《超越論的図式》とのこうした関係を組み込まれた《時空連続体》が、〈持続的な
もの〉という装置である。〈線を引くこと〉における空間と時間の不可避的な結びつきとは、
「時間系列の様々な継起する部分」に一体一に対応して空間系列の様々な部分が「同時に
あること」である。この連続的プロセスは、《時空連続体》に支えられることにおいて、そ
れとの固有な関係を組み込まれている。例えばデッサンの際にカンヴァスの上を駆け巡る
絵筆は、時間の流れにぴったりと寄り添いながら多様な描線(まさにこの線)を生み出し
ていく。この絵筆の動きが、常に同時にそこにあるこのカンヴァスをその都度の描線が生
み出される場へと造り変えていくのだ。ここでカンヴァスは、およそそこに描かれる一切
の線(線というもの)を含み、それを支えている《時空連続体》である。すなわち、絵筆
の動きが組み込まれた「継起するものと同時に存在するもの」としての〈持続的なもの〉
なのである。つまり、この〈持続的なもの〉は、〈線を引くこと〉という思考の働きがその
都度空間と時間を不可避的に結び付けることによって現実的経験を成立させる場の仕組み
なのであり、その意味で、この思考の働きを支えているものなのである。言い換えれば、
この〈持続的なもの〉は、その都度今ここでの〈まさにこの痛み〉の認識(まさにこの私
の経験)を生み出していく連続的プロセスがそれに組み込まれ、そのプロセスとともに常
に同時にあるものとしての《時空連続体》であり、およそそこで生み出される一切の〈痛
み〉(痛みというもの)を含み、それを支えるものなのである。

 〈Xというもの〉と〈まさにこのX〉を結び付けている《空間と時間の必然的な結びつ
き》という形式は、この〈持続的なもの〉という装置にもとづいている。《我々の経験の形
式》は、この〈持続的なもの〉という装置の形式なのである。そこで、この装置を〈把握
の装置〉としてとらえ、それに焦点を絞ろう。例えば、〈私〉が〈まさにこの手〉を動かす
ことで線を引いたり数えたりする場合、〈私〉はこの動きに伴う特定の触発を一つの系列と
して感じているはずである。言い換えれば、〈私〉はこの触発の継起を一つの持続=量とし
て把握しているはずである。ところで、その都度の〈まさにこの手〉の触発がそれに組み
込まれ、常にその手の動きと同時にあることが把握されている時空連続体は、一般に《自
分の体》と呼ばれる。《自分の体》とは、そう呼ばれる限り、そのあらゆる部分の動きがそ
れに組み込まれ、常にその動きと同時にあることが〈把握されている〉装置である。逆に
言えば、一般に《自分の体》と呼ばれるものは、それ自体で成り立つものなのではなく、
それ自身の把握の装置が解体すればそれとともに分裂/崩壊してしまうものなのである。
 
 ……例えば、ようやく《変換跡地界わい》の人々の噂にのぼり始めているあの〈誰か〉
が手を高く上げて下ろす間にこの把握が失われ、しかもこの動作を絶えず反復していると
しよう。手を下ろした直後に「もうそのくらいにして休みませんか?」と何度言ってみて
も、彼は何気なく手を高く上げながら深い困惑の叫び声をあげるだろう。やがてその動作
を繰り返す余り倒れてしまうとしても、彼には全くわけが分からないのだ。彼の手の動き
は、もはや〈手の動き〉(それは本来〈彼の手〉の動きに他ならないはずのものだが)では
なくなっている。他方、一般に《自分の体》とは呼ばれないものがある。例えば、かねて
から《変換跡地界わい》の人々の噂にのぼり始めてはいるものの依然として〈誰〉なのか
は全く不明の〈誰か〉が転がっていくテニス・ボ-ルを指さしながら、「そのあらゆる動き
がそれに組み込まれ、常にその動きと同時にある!」という〈把握〉の喜びに満ちた感嘆
の叫び声をあげるとしよう。だが、そのことがこのテニス・ボ-ルにとって、そして〈我々〉
にとって一体〈何〉だというのか?! つまり、今更ながらに思い知らされるのだが、彼
とは違って、〈我々〉はテニス・ボ-ルの類を《自分の体》とは呼ばない。(「なぜ〈我々〉
はこんなに退屈なのか……。」)すなわち〈我々〉の常識とは、「一般に《自分の体》と呼ば
れるものと区別されるものは、そのことを把握していない」ということなのだ。
 
(〈外〉のささやきがはっきりと聞こえる。――ここであえて〈君〉に告白しておかなけ
ればならないが、彼は現在あの(彼の言うところによれば)ゲイ・テニス・ボ-ルときわ
めて親密な共棲関係にある。今日もあのゲイ・テニス・ボ-ルを、(彼の言うところによれ
ば)彼の内密の愛人〈K〉の部屋の旧暦通称『もう一人のマダム・パロマ・ピカソのウォ
-クイン・クロゼット』の裏側に連結されたn-次元多様体の各々の準領域にそれぞれほぼ
均等に分割されて海綿状に滑らかに張り付いている彼の秘密のプチ・ポケット穴の奥深く
から優しく誘いだしたばかりだ。〈君〉にこのことが信じられるかね? ところが、彼にと
ってこんなことは実際なんて言うのか……この世に生まれてくるずっと前からやり尽くし、
しかもやり飽きることのない永遠の日課なのだ。いや全く、〈君〉にもその内紹介してやっ
てもいいが、彼はこんなこと――つまり〈我々〉の想像さえ及ばない類のこと――にかけ
ては実に天才的な誘惑者なのだ……。)

 【〈数えること〉――ダイニング・テ-ブルの上のレモンについての一つのエピソ-ドつ
いでにマダム・パロマ・ピカソ崩壊】

〈数えること〉に関して、KVでは次のように語られている。
「悟性の一つの概念としての量の純粋な図式は数であり、数とは(同種の)一つのもの
を一つのものへと順次加えることを包み込んでいる表象である。従って数とは、私が直観
の把握において時間そのものを生み出すことによって、同種な直観の多様なもの一般の総
合を統一することに他ならない。」 この記述は、〈持続的なもの〉という装置、つまり把
握の装置の形式を提示している。すなわち、〈数えること〉というプロセスにおいて、〈線
を引くこと〉の把握がその都度常に反復されるあり方/形式が提示されているのである。
言い換えれば、与えられた多様な直観の把握という場面で、その都度〈継起するものと同
時にある〉という装置のあり方/形式を完全に確定したものだと言える。言うまでもなく、
〈我々〉が内包量を数量化できるのも、この把握の装置を使ってのことである。

ここで、〈私〉が友人のH・Mの明るい部屋に招かれた時の実にささやかなエピソ-ドの
断片を忘れずに書き留めておくことにしよう。
……その日、〈私〉とH・Mはいつしか昼間から二人で大吟醸酒をアンチ・ポルポト割で
飲んでいた。かねてから互いに似たもの同士だという密かな噂が絶えなかったので、この
日も二人の間で(正確にはもう一人、ついさっきまでドビュッシ-の『版画』をなぜか粋
な江戸前スタイルで弾いていた旧暦準通称《ほとんど特性のない女》がいたが)炎と氷が
適度に混成された『菊姫』を互いの間でほぼ永遠に近い時に渡って回していたのだ。それ
でも〈私〉は、思い切って最後の『菊姫』を飲み干すと、知人のデナリ・チェンチのねじ
れダンスが映し出されているジャスミン香に包み込まれたアンチ・ヴィジュアル・蝿テレ
ビ・スクリ-ンに向かって無造作にOFF信号を投げかけた。その時、淡い白緑色の絹暖
簾に覆われた出窓の傍らを、一人のレモン・テニス・ボ-イのシルエットが軽やかに通り
過ぎていったようだった。誘惑と残酷の予感。深い沈黙が流れ、《ほとんど特性のない女》
はラベンダ-の群れが昨夜そこで集団自殺したと言われるバス・ル-ム(改めて言うまで
もなくキャノン製暗視スコ-プがセットされた完全密閉タイプの超強度感覚実験用小部屋
に適宜変換可能)へとあえぎながら足早に消えた。彼女はすでに、いつしかしっとりと濡
れたラベンダ-・シルク・ムカデ・ス-ツを脱ぎ捨て、実験用小部屋に変換された旧暦通
称『間接透視用プリズム・ケ-ス』の内部で(あえてなつかしのC級植民地用語で言うな
ら)「スタンバイしていた」のだ。
(「もうこうなったら行くところまで行くしかないわ!」)
すると突然H・Mの叫び声。「レモンが足りない! いよいよ超年代物ゲ-ム・ソフト『誘
惑と残酷のレモン・テニス・ボ-イとの新たな出逢いを震えながらそっと待ちわびて』の
発射時間だ!」 ――それは驚くべき光景だった。彼は〈私〉の耳もとわずかO.071
オングストロ-ム(余白の注:1オングストロ-ムは1億分の1センチ・メ-トル)以内
でピアス化されてしまうほどに見事な超微細変換を成功させたのだ。そして、ただ呆然と
立ち尽くす〈私〉の忘れ去られた時空領域の最構成に信じられないほどの優しさで立ち会
いながら、「10秒以内にこの箱の中にあるレモンを数えてくれ。レモンはダイニング・テ
-ブルの上に一つずつ並べるんだ!!」という彼の絶叫。追い求められた臨界プラズマ状
態の幻想はもはやすっきりと消え失せ、かつてない緊張が一挙に絶頂に達する。ここまで
やられたからには、〈私〉の決意は堅かった。ついに〈私〉はレモンを数え始めた。
 
 ……さて、興奮の渦の中でレモンを数え終わると同時に、「Φ!」というH・Mのサイン
が〈私〉の耳もとを貫いた。ダイニング・テ-ブルの上に並ぶ10個のレモン。こうして、
ちょうど10秒間レモンを数えると全部で10個になることを学んだので、今度は逆に1
0個レモンを数えて何秒になるか試してみたらちょうど10秒だった。結局レモンを数え
るこの〈手の動き〉は、一つ数えるごとにいつでもちょうど1秒の時間を生み出していた。
つまり、〈この手〉が数えながらテ-ブルの上に並べるレモンの個数が、その都度生み出さ
れる決まった時間を表現することが分かったのだ。
 (ふと気づくと、H・Mが〈私〉の耳もとで熱い『菊姫』の涙を流していた。むろん肉
眼では決して見えない涙だ。〈私〉には痛いほど分かっていた。極限までピアス化された
H・Mの本紫色のマイクロ・メッシュ・縮緬ストッキング・ヘア。その情感豊かな波紋が、
あの軽やかな、そして多分いつものラメ・ビキニ・湯上がり浴衣姿のレモン・テニス・ボ
-イの息づかいと一つになったのだ。)
ところで、レモンの個数=tが表現する決まった時間は、必ずしもt秒間である必要は
ない。そこで、〈この手の動き〉は単にその都度決まった時間=αを生み出すものとしよう。
次に、先の〈誰か〉の〈手を高く上げて下ろす動作〉がやはり決まった時間=αをかけて
為され、その際決まった線分=Σを壁に描いてしまうとしよう。よって、先の動作の反復
が生み出し表現する決まった時空系列[α-Σ,α-Σ,α-Σ,……]は、〈この手の動
き〉の反復が生み出し表現する決まった時空系列[α-レモン,α-レモン,α-レモン,
……]に一対一対応することになる。よって、「〈あの手〉は繰り返し壁に線を引き、〈こ
の手〉は繰り返しレモンを数えている。しかも全く調子を合わせながら!」ということに
なろう。幸運にも線を引くことと数えることが出逢い、〈まさにこの線〉と〈まさにこの数〉
が仲良く規則的に生み出されているというわけだ。〈我々〉の大いなる歴史の全体を横断す
る〈知〉の揺るぎない存在を確証する決定的実験を目の当たりにして、これ以上〈何〉を
語れるだろうか。
 (だが、ここでなぜかラベンダ-香に包み込まれた間接透視用プリズム・ケ-スからあ
の失われた隣の部屋へと延びる『超倦怠結局回収ダクト』内で、いつになく若返ったマダ
ム・パロマ・ピカソ[彼女は他でもないあの《ほとんど特性のない女》だ]がやけになっ
て絶望の叫びをあげる。)  「線を引くことと数えることの出逢いですって? とんで
もないわ! 〈この手〉と〈あの手〉がそれぞれ勝手にやっているだけじゃないの。〈この
手〉と〈あの手〉がお互いに顔見知りになれるどんな出逢いの場所があるというの? そ
れに……あえて残酷なことを言わせてもらえば、そもそも〈あの手〉は訳もなく動いてい
るだけで、実のところもはや〈手〉とは呼べないわ!」
 放心した彼女の虚ろなため息が、宙吊りになりながら部屋中を満たしていく。彼女の絶
望の深さに打たれた〈私〉は、ありもしない逃げ道を追い求めるかのように、出窓を覆う
絹暖簾と静かに戯れているアンチ・ハラス・カウンタ-に目を逸らした。そこにさりげな
く置かれた若き光磨・Sのポ-ト・レ-ト。(打ち明けて言うが、それはトリノのカルロ・
アルベルト広場でのスナップ・ショットで、遠くタシケントからの旅の途中シルヴァ・プ
ラ-ナで偶然出逢ったロ-ズ・セ・ラ・ヴィ氏が撮ったものだ。) ――その瞬間、〈私〉
は耳を疑った。信じられないことだが、なぜか光磨・Sの歓喜に満ちた声が聞こえてくる
のだ。
 「あの反復運動(〈我々〉は少なくともこう表現することができる)は、彼にとっては、
反復でも運動でもない。そうした把握が成り立つための〈持続的なもの〉という装置が壊
れているのだ。いや、違う。壊れているのではない。むしろ美しさの極限へと達するダン
スだ。……〈まさにこの手〉を失っている彼は、とめどもない超訓練プロセスのうちにあ
る。無限に生成する触発の宇宙が、途方もない爆発を始めたのだ。」

「もう〈何〉もかもお仕舞いよ!!」

その時何かが粉々に砕け散った。凍り付いた光景の中で、透明な血の海が窓際のスクリ
-ン一杯に広がる。振り向くと、無造作に開け放たれたドアの《隙間/裂け目》から錯乱
したマダム・パロマ・ピカソの後ろ姿が見える。いつしか激しく降りだした雨。それはマ
ダム・パロマ・ピカソの崩壊をどこまでも追いかけていく。(「これでいい。アモ-ル・フ
ァティ[運命愛]……」) ある予感とともに、舗道を駆けていく彼女を眺めながら、〈私〉
は残酷な喜びに激しくかき立てられるのを感じていた。


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